2012年01月07日


沖縄の歴史 事実を知り課題を再考

 

 沖縄が日本に復帰して、今年で40年を迎えます。戦争・戦後・米軍統治・復帰まで、沖縄のたどった事実をあらためて見つめ直し、取材した内容なども交えながらシリーズで紹介します。

 

 1972年5月15日。沖縄の施政権が、米軍から日本へ返還された日。いわゆる「沖縄の復帰」の日である。 

▲碑文は、復帰当時の復帰協議長「桃原用行(とうばるようこう)」                    氏によるもの。桃原議長は、全電通沖縄県支部初代委員長である。

▲当時、本土と沖縄を分離する「北緯27度線」の洋上で、復帰に向けた交流集会が行なわれた。その様子を見ることができた沖縄本島最北端の岬「辺戸岬」に、「復帰の碑」が建っている。

凄惨を極めた地上戦

 1945年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸して以降、状況は凄惨を極めた。弾丸や砲弾が雨のように飛び交い、すべてを破壊し奪い去る戦争を、沖縄の人たちは「鉄の暴風」と呼んだ。死者は20万人を超え、10万人を超す県民と日米両軍の兵士が犠牲となった。
 「軍の役割は敵のせん滅。住民を守ることではない」との基本姿勢で、日本軍は、一般住民を巻き込み、盾にして戦った。「国土防衛義勇隊」「鉄血勤皇隊」「ひめゆり部隊」など、戦うことが可能なすべての住民が動員され、そして死んでいった。
 6月23日、日本軍第32軍・牛島司令官らが自決し、日本軍としての組織的抵抗が終わった。
 現在も、沖縄では「慰霊の日」として、戦没者慰霊祭が行なわれる他、情報労連「沖縄ピースすてーじ」も実施されている。                  

終戦~米軍の占領

    8月15日のポツダム宣言受諾による無条件降伏後、9月7日、沖縄守備軍残存部隊の降伏文書への調印をもって沖縄戦は終結した。その後、1946年に『日本国憲法』が公布。1951年には「サンフランシスコ平和条約」が締結され、翌52年4月28日発効した。
 これにより、日本は「米軍の占領」を解かれ、主権国家として再スタートしたが、沖縄は、引き続き、米軍の施政権下に置かれることとなる。これに関する密約文書(いわゆる「天皇メッセージ」)の存在も明らかになっている。
 日本が沖縄を切り捨て、米軍統治が継続することとなった4月28日を、沖縄県民は「屈辱の日」と呼び、平和運動や日本への復帰運動がスタートした日となった。 

基地建設と犯罪

 1945年4月、米軍が沖縄本島に上陸し、激しい戦闘の末に沖縄を占領してから、1972年の施政権返還まで、27年間の長きにわたり、沖縄は米軍の占領統治下に置かれる。
 この間、日本は、高度経済成長を遂げ、国際社会での地位を確立することとなるが、沖縄は、米軍基地が次々と建設され、米軍による殺害・強姦・略奪などが後を絶たない状況が続いた。米軍統治下の27年間で、米兵の犯罪件数は2万件を超える。
 米軍は、軍事施設建設のため、農地や住宅を「銃剣」と「ブルドーザー」で強制接収し、巨大な米軍基地を着々と建設した。日本が新憲法のもとで「不戦」を誓い武力を放棄したころ、沖縄では、極東最大の軍事基地が、土地を収奪された住民の犠牲により拡大されていった。
 米軍の占領統治時代に次々と建設された基地が、現在の沖縄におけるさまざまな角度からの米軍基地問題を存在させている。
 また、米兵の頻発する卑劣な犯罪は、単に沖縄県民を苦しめただけではなく、米軍統治を否定し、日本への復帰運動を加速させた。 

事実を知る必要性

  「沖縄の復帰」から40年が経過する今年。戦争・戦後・米軍統治・復帰にいたる歴史の事実。そして現在も沖縄が抱える多くの課題が、その事実に起因することを私たちは知る必要がある。


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