2012年05月12日


沖縄の心 次代へつなぐ

 

 1967年11月、「第二次佐藤首相・ジョンソン大統領会談」で、2~3年以内の沖縄返還が約束された。そして、1969年11月21日の「佐藤・ニクソン共同声明」により、沖縄の1972年返還の合意が成立。時代背景としては、1965年、米国が北ベトナムの空爆を開始し、いわゆる「ベトナム戦争」が激化する中で、沖縄の米軍基地の重要性が高まっていた。
 また、「日米安全保障条約」の延長期限を1970年に控え、国内では「安保闘争」が激化していたころである。

 

 返還への思い

返還協定批准阻止闘争(1971年)

 沖縄の返還に向け、日米協議をはじめとする諸準備が進められる。しかし、前述したとおり、沖縄の米軍基地が「太平洋の要石」と呼ばれるほど重要性を増す中で、米軍基地の存続や核の問題など、返還に伴う課題は山積していた。
 沖縄県民は、米軍基地の全面撤去を含めた無条件返還を求めた。当時の沖縄の行政府である琉球政府は、米軍基地が存在したままの返還を危惧し、「復帰措置に関する建議書」をまとめた。「建議書」には、基地のない平和な島を切望し、基本的人権の確立、基地経済からの脱却など、凄惨な戦争と過酷な米軍統治等、時代の悪夢にさらされた沖縄県民の切なる思いが集約されていた。

 

 相次ぐ事件・事故

  復帰前の沖縄では、事件・事故も相次いだ。
 1968年11月、ベトナム空爆のため嘉手納空軍基地を離陸したB52爆撃機が、離陸直後墜落。爆発・炎上し、爆風により、100戸を超える付近の民家が被害を受け、負傷者も出た。B52は、太平洋戦争で日本を大量に爆撃し、広島・長崎に原子爆弾を投下したB29の事実上の後継機である。返還に向けた準備が進む中で起きたこの事故は、反米感情を高め、嘉手納基地の撤退、B52爆撃機の配備停止を求めた県民運動が過熱する。
 また、1970年に発生した、米軍兵士による交通事故と、その裁判における米軍兵士優遇・沖縄県民への不当差別とも言える判決に対する沖縄県民の怒りは頂点に達し、コザ暴動が起こった。
 米軍統治への鬱積した不満とともに、沖縄の完全復帰に向けた運動・闘争は佳境を迎える。

 
 

 無念の復帰

 1971年11月、「沖縄返還協定」は衆議院で強行採決され、沖縄県民の思いが集約された「建議書」は審議されることはなかった。この協定の第一条には、「1951年に締結されたサンフランシスコ平和条約第三条に基づく沖縄の施政権などすべての権利・利益を米国は放棄し、日本国が行政・立法・司法上のすべての権利を行使するための完全な権能・責任を引き受ける」と記されている。
 一方、他の条項において、すでに設置されている米軍基地・土地の継続使用や、返還に伴い発生する費用(3億2000万ドル)の日本側負担などについても記されている。
 結局、米軍基地を沖縄に残したままの「核抜き・本土並み」返還が決定された。
 そして、1972年5月15日、沖縄は日本に復帰し、「沖縄県」が誕生した。

 ―了―

 

 おわりに

平和を希求する心

 今回、先輩の話しを聞き、数々の本を読んだが、これまでの無知を思い知らされた。地上戦が繰り広げられ、多くの犠牲者を出した沖縄。在日米軍専用基地の約七四%が集中し、沖縄本島の約一九%を占める基地の島・沖縄。過去と現在の一部しか知らない。
 戦後、沖縄がたどった歴史を知れば知るほど、現在行なっている運動・活動の必要性が明白になってきた。
 単に、「沖縄の復帰」という一言では済まされない、奥深い数多くの事実があり、今回のシリーズでもほんの一部しか記すことができなかった。
 「日本国憲法のもとに帰りたい」つまり、「平和憲法のもとに帰り、平和な島を取り戻したい」との沖縄県民の想いは、「島ぐるみ」の運動・闘争となり、自らの手で日本復帰を果たしたのだ。
 しかし、1995年に起きた米兵による少女暴行事件など、いまだに犯罪・事件などが発生している。これらが米軍統治の残した負の遺産であることは間違いない。
 私たちは、沖縄の戦後を生き、希望を捨てず闘ってきた先人たちの熱い想いを知り、歴史の事実を知らなければならない。そして、その想いと事実を次代に継承し、真の意味での平和な世界を求めて行動すべきである。
 本シリーズが、読者の皆さんの心に届き、平和を求める想いが日本全体を包むよう切に願っている。沖縄の皆さんが、「島ぐるみ」で闘ったことを忘れてはならない。


 


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