2012年04月28日


-祖国復帰闘争- 平和運動の礎に

 屋良宣正さん(退職者の会沖縄県支部協副会長)に、あらためて話を聞く機会を得ました。復帰前の沖縄の空気はどうだったのでしょうか…。

 

  「1971年のゼネストに参加した時、戦車のキャタピラの地響きがすごかった…と掲載してくれたけど(3月24日号)、戦車が走っていたのは、私が幼いころで、那覇軍港から基地までものすごい音をたてて走っていたことを覚えているよ。さすがに一九七一年に戦車は走っていなかった」と屋良さん。お詫びした上で、当時のようすをあらためて聞いた。

 

 日本の潜在的主権

 屋良さんが1968年電電公社に採用され、大阪に赴任したことは、すでに記した。その後、1970年に退職し、沖縄に帰った屋良さんは、無線士の資格を持っていたため、「琉球電電」で無線士としてアルバイトをしていた。
 「当時は、パスポートが必要だったけど、大阪に行った時も『入国』、沖縄に戻った時も『入国』。両方とも『入国』なんておかしな話しだよ」。米軍が統治していても、沖縄の「潜在的主権」は日本にあるという奇妙な理屈が、その背景にはある。

 

 完全復帰を求め

▲佐藤首相訪米反対全国72万人抗議デモ(東京)のようす

 1970年から72年の復帰までの間は、大規模な決起大会やゼネストが頻繁に行なわれた。1969年に佐藤首相とニクソン大統領が会談。11月には「72年・核抜き本土並み・安保適用による沖縄返還」との共同声明を発表した。
 その内容は、沖縄県民の期待に反し、基地を存続させたままの返還であったことから、県民は完全復帰を求めた。屋良さんが経験した71年のゼネストもその一つ。特に、その年の5月に行なわれた「日米共同声明・沖縄返還協定粉砕、完全復帰要求」を掲げたゼネストには、約10万人が参加した。
 当時も、米軍が統治する沖縄では、米軍兵士の犯罪・事件、事故が続発。そのたびに県民が結集し、会場となった与儀公園がいっぱいになったことは何度もあったと言う。

 

 抑圧への怒り

 1970年には、米軍兵士が女性を交通事故で死亡させたが、裁判の結果は、「無罪」。この結果に県民は怒り、無罪判決抗議大会に結集した。この事故を契機に、それまでの圧政・人権侵害に対する県民の怒りは頂点に達し、米軍車両へ次々と放火するなどの「コザ暴動」が勃発した。
 以前にも記したとおり、単なる「祖国復帰要求」だけではなく、米軍による圧政・人権侵害、米軍兵士の犯罪等を引き起こす根幹である基地の存在など、沖縄の運動・闘争の歴史は、抑圧された沖縄県民の怒りが根底にあったことを忘れてはならない。

 

 県民総ぐるみの運動

 「集会や総決起大会などでは、組合旗をなるべく掲げないように配慮したね。広く県民が参加しやすいように意識していた」と、屋良さんは、当時のようすを話してくれた。「国道1号線(現在の58号線)を遮断してジグザグ行進しても、県民は文句を言わない。沿道からは声援を受け、夜は、車のライトを消して通り過ぎるのを待ってくれていた。労働組合や革新勢力だけではなく、思想・信条を超え『祖国復帰』という『めざすべきもの』に沖縄県民全体がまとまって大きなうねりとなった」とも。「『復帰闘争』という大きな目標に向かって団結する。組織をまとめてきたから、今日があると言ってもいい」と屋良さんは言う。

 

 全電通運動に学ぶ

▲全電通労働学校「団結の家」(2969~2002年)

 1970~71年。復帰を前にしたころ、当時の沖縄全逓は、本土の全電通と交流があった。全電通運動を学ぶため、伊豆・稲取の「団結の家」(全電通労働学校)へ役員を派遣し、「職場活動家教育」を全電通役員とともに受講させていたそうだ。「いかに全電通運動が素晴らしかったか、ということだね」と屋良さんは語る。
 連合沖縄事務局長も歴任した屋良さんは、「今のNTT労組の運動は、全電通時代からの『団結の家』を中心とした労働者教育の賜物。他労組からも、組織がしっかりしていると言われる」と言う。「特に、平和運動に対する評価は高い。当時の平和行進の宿泊は体育館。入りきれなかったため、全電通はホテルを確保し、バスで送迎した。『観光気分ではないか』との批判ややっかみもあったが、1人でも多くを参加させたいとそこまで徹底してやった。現在でも600人も集めて平和行動をやる組織はないよ」。
 恒久平和を求め、運動・活動を継続する基礎は、当時からの強固な組織力による全電通運動が継承されていることにある。そして、今のNTT労組運動が存在している。

(次回へ続く)

 


このページの先頭に戻る