2012年04月14日


日本全体で 本格的な運動へ

 住民闘争として展開されてきた沖縄の復帰運動は、労働者・労働組合を中心とした、本格的・大規模な運動へと発展します。

 

 労働者増加の背景

 1945年、米軍の施政権下での沖縄の通貨は「B型軍票(B円)」。軍票とは、占領下等で通貨の代用として使用された手形のことである。当時、120B円=1ドル、1B円=3日本円のレートで、1958年まで使用された。
 米国は、1958年に、日本本土からの資本流入の促進を図るため、B円をドルに切り替えた。この結果、製糖などをはじめとする沖縄の産業は発展し、必然的に労働者が増加しその活動も活発化することになる。

 

 労働組合の結成

祖国復帰要求県民総決起大会のようす

 当時の沖縄では、「労働組合の認定手続き」(1955年)による労働組合の認可制、言い換えれば、不認可制とも言える厳しい条件があったが、ドル切り替えによる労働者の増加以降、労働組合が続々と結成された。
 沖縄で労働組合が公認されたのは、1953年の琉球立法院職員労働組合(101人)が戦後初めて。その後1960年までの7年間で、80組合(1万6855人)という勢いで労働組合が組織された。沖縄における全電通の前身である「沖縄全逓」が結成されたのは、1956年のことだ。
 1958年4月28日の祖国復帰要求県民総決起大会には、住民・労働者など七万人が集結。当時の那覇市の人口は約23万人であったことから、いかに大規模な集会であったかがうかがえる。
 また、1962年の春闘は、それまでにない規模で展開された。「当時の沖縄全逓は、本土の全逓・全電通と連絡をとり、3月29日午後1時から1時間半の間、沖縄と本土間の電報送受信を完全にストップさせた」との記録もある。
 

 

 復帰協の結成

 このような労働者・労働組合の成長を背景に、1960年、官公労・教職員会などの団体が世話委員となり、「沖縄県祖国復帰協議会」が結成された。前回も記したように、沖縄の復帰闘争は、米軍統治に対する抵抗が根底にあり、激しい住民闘争として展開されてきたが、いよいよ、労働者を中心とした全県的な闘争へと発展していく。
 復帰協の結成を契機に、翌年4月28日の県民総決起大会では、「平和条約第三条の撤廃(第三条=沖縄を米国の占領統治下に置くことが規定された条項)」「日本政府に対し沖縄返還要求の対米外交を迫る」など、13項目からなるスローガンが採択された。このスローガンの中には、「新安保条約の本質を知らしめる運動を展開しよう」ともある。

 

 安保闘争との結合

 一方、この頃の日本本土では、1960年5月20日、新たな『日米安保条約』案が衆議院を通過。その後、参議院の議決がないまま、6月19日に自然成立していた。国会議事堂の周囲を連日デモ隊が取り囲むなど、日米安保条約に抵抗する、いわゆる「安保闘争」が激しさを増していた。本土における「日米安保反対」と沖縄における「平和条約第三条撤廃」は、同一の方向性をもって結合していく。
 その画期的な例が、1963年4月28日に初めて行なわれた「海上交歓」である。当時、米軍支配下の沖縄と日本を隔てていた国境線は北緯27度線。沖縄本島最北端の辺戸岬と、鹿児島県最南端の与論島の間の海上にある。
 海上保安庁の巡視艇が監視する中、その北緯二七度線に、沖縄側と本土側からそれぞれ出港した船が合流し手を握り合った。沖縄の復帰闘争は、沖縄県民だけではなく、日本全体の運動としてさらに発展していく。

 

 圧政下での反抗 

1970年の「海上交歓」のようす

 米軍の施政権下にあった沖縄は、米国本国の全権を委任された最高権力者「高等弁務官」による統治が行なわれていた。特に第三代のキャラウェイ陸軍中将(1961~64年)は、日本との分離政策を推し進めたり、強権を発動したりしたため、「キャラウェイ旋風」と呼ばれた。
 圧政により厳しく制限された司法・立法・行政の三権は、米軍兵士の犯罪に対しても抑止力とはなり得なかった。六歳の少女の米兵による暴行・殺害(1955年「由美子ちゃん事件」)、小学校に戦闘機が墜落し128人の児童が死傷(1957年「宮森小ジェット機墜落事件」)  等、度重なる事件・事故に対し、犯人の処罰や、被害者・住民への補償は十分とは言えないものだった。
 沖縄県民への人権侵害に対する不満や怒りは一層高まる。基本的人権の確保と合わせ、復帰運動は大規模で本格的なものとなり、総決起大会には十数万人の労働者・住民が集結した。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                               (次回へ続く)


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