2012年04月09日


反対運動から復帰闘争へ

 

 2人の先輩に話を聞いたのは、12月8日。1941年、日本軍が真珠湾を攻撃した、いわゆる太平洋戦争開戦の日です。

 

黒島 善市さん       1935年:石垣市生まれ/1956年:琉球政府工務交通局(海岸局)採用/1982年~全電通沖縄県支部委員長/1989年~電電会館「プラザでいご」館長等歴任  

 

   屋良 宣正さん      1950年:那覇市生まれ/1968年:電電公社採用(大阪電信施設所)/1990年~全電通九州地本執行委員/1996年~全電通沖縄県支部書記長/1998年~NTT労組沖縄県支部委員長等歴任

  
  

 戦争そして終戦

 「小学3年の私は、台湾の国民学校で手旗信号や教育勅語を教えられ、毎日、竹やり訓練、食糧増産のための畑仕事などをしていた。兵隊がいるから自分たちは生きていられると思い込まされていた」と語るのは、退職者の会沖縄県支部協議会会長・黒島善市さん。
 黒島さんは、1941~45年(終戦の年)まで、台湾に疎開。軍港のある台湾・高雄は、1944年ごろから、空襲も頻繁になり、戦争は激化していた。
 「紙が少ないから、A4の半分くらいのものに試験の答えだけ書く。問題は黒板。一問間違えるとげんこつが一つ。先生の拳が痛くなるとだんだん緩くなる。すると先生が代わってまたなぐる」。当時の学校は、試験もこのような状
況だったようだ。
 「12月8日、日本軍が真珠湾を攻撃した日。みんなで歌を歌って鼓舞したものです。情報は、教室にある丸いラジオのみ。退却~転進…と。空爆も激しくなり、撃ち落としてやろうと、ゴム管でオモチャをつくったりしてたな。戦況は、ほとんど分からない。とにかく、カラダを鍛えることだけだった」
 そして、1945年終戦を迎える。
 「憲兵が右往左往していたね。それで、何となく“負けた”ことを感じとった」

 

 戦後の食糧事情

 その後、黒島さんは、生まれ故郷の石垣島に帰る。石垣島は台湾に近いことから、大正から昭和のはじめにかけて出稼ぎなどの行き来が盛んで、石垣島には、台湾出身者の集落もあると言う。石垣島に戻った黒島さんだが、過酷な日々が待っていた。
 「イモが食べられたらぜいたく。根や葉を食べていた。あとは、魚を捕って食べていた。みそ・塩・しょうゆはあったかな。さとうきびを農協に売ってお金にしていた。ソテツを食べるほどではなかったな」。戦時中から沖縄の食糧事情は非常に厳しく、蘇鉄を食べていた。毒性を持っているため、調理法を誤ると死の危険性があった。沖縄では「ソテツ地獄」と言われている。
 「石垣は何とか食べるものがあったね。モービル天ぷらはよく食べたよ。ハブ・犬・野ネズミ・猫なんかをモービル製のエンジンオイルで揚げて食べるんだ」。今でこそ、笑って話すことができるが、当時は、どれほどの苦難であったか。住民の暮らしは、まさに「ソテツ」をも食べなければ生きていけない悲惨な時代だったのである。

 

 反対運動の激化

島ぐるみ闘争

 第二次世界大戦が終結し、日本の敗戦により沖縄は米軍統治下に置かれた。そして、1951年の『サンフランシスコ平和条約』の締結によって、沖縄は米軍の施政権下に置かれることとなる。翌年、この条約が発効し、沖縄が日
本から切り捨てられた日、「屈辱の日」とも呼ばれる4月28日を迎える。
 過酷な戦争を経験した沖縄は、米軍の施政権下で、さらなる犠牲を強いられる。米軍は、極東最大の軍事基地の建設を進め、「〝銃剣とブルドーザー〟による土地の強制接収」で、家を焼き払い、畑をブルドーザーで一気に引きな
らすなど、横暴さは激しさを増した。これは、米軍が、地主らに20年間の「使用契約の締結」を求め、坪あたり一円(当時コーラ1本10円)で一括支払いを提示したため、地主らが反発し、反対運動が激化したためだ。米軍の横暴に対し、琉球政府(民政府)は、「土地を守る四原則」を決議し、①借地料の一括払い反対②適正補償③損害賠償④新たな土地接収の中止を求めた。
 激しい反対運動を受け、米政府から「軍用地調査団」が派遣され、住民は土地収奪の中止を期待したが、調査団のプライス団長が、「プライス勧告」を発表し、土地の長期的使用を明記。地代の一括払いと土地の永久買い上げを勧
告した。
 これに対し、住民は猛反発し、各地で数十万人規模の土地闘争が頻発。その後、島全域に広がり、「島ぐるみ闘争」へと発展した。
 「土地を奪われ、南米に移住するたくさんの人たちを、工務交通局の通信士として見送った」と、黒島さんは語ってくれた。米軍の無謀な土地収奪により、多くの住民が生まれ育った土地を追われ、南米への移住を余儀なくされた
のだった。

 

 沖縄への偏見

 「大阪中央電報局に配属されたが、当時は、パスポートを持って行った。同期からは、『ちゃんと日本語しゃべれるのか』『テキストは読めるか』などと言われ、今思えば差別されてたんだね。よく負けなかったな(笑)」と話してくれたのは、退職者の会沖縄県支部協議会副会長・屋良宣正さん。
 屋良さんは、1968年、当時の電電公社採用と同時に大阪へ赴任した。「1969年のゼネストの時、青年会議の役員をやっていたけど、『日本語話せるの? 英語は話せるんだろ?』なんて言われたもんだね」と、沖縄出身者に対する差別・偏見などの様子がうかがえる。

 

 闘争の根幹

 沖縄に戻った屋良さんは、激化する復帰運動に参加する。「1971年11月10日だったかな。国道1号線(現在の58号線)を遮断して大行進した。火炎瓶が飛び交い、大混乱だったが、戦車が走ると、キャタピラの音で地響きがすごかった」と、当時の闘争の様子を話してくれた。
 このような闘争は、頻発する米軍兵士の卑劣な犯罪などに対する抗米運動とともに、さかのぼれば、陸上戦闘での凄惨な結末はもちろん、戦後の土地収奪など米軍統治への反感情に起因している。
 沖縄の復帰運動は、これよりも先に住民闘争として展開されていたが、1960年4月28日、「沖縄県祖国復帰協議会」が結成され、その運動の中心となる。


 (次回へ続く)

 

 

 

 
 
 


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